これまでの倉島〜明治から平成まで〜
明治38年
「八重樫牧場」での酪農開始
岩内町にある「八重樫牧場」において、酪農が開始されました。
この牧場が後の「倉島牧場」の前身となりました。
大正14年
平治、樺太にわたる
創業者である倉島平治は、19歳の時に樺太へ渡り、現地で牛乳瓶の卸売りをしていた知人と出会いました。その知人から、岩内町にある牧場を紹介され、八重樫牧場を引き継ぐことになりました。その後、牧場の名前を倉島牧場へと改め、酪農業を本格的に始めました。
当時、岩内町の海岸部はニシン漁が盛んで、町も人々も非常に活気に満ちており、人口は1万4千人に達していました。しかし、牧場がある山側はまだ開拓が進んでおらず、開墾を進めながら牧場を作り上げていくこととなりました。


昭和6年
倉島牧場の誕生
平治は、牧場を引き継いだ後、八重樫牧場の長女であるヤスと結婚しました。牧場で絞った牛乳は岩内町だけでなく、共和町、泊村、神恵内村など近隣地域にも広く販売していました。
ヤスは経理を担当しながら、バター製造にも携わり、平治を全力で支え続けました。二人三脚で倉島牧場の基盤を築き上げました。
昭和8年
バターの優良賞受賞
おいしさにこだわりを持ち、試行錯誤しながら製造したバターは、地域の方々から評判を得て人気商品となり、北海道庁長官よりバターの優良賞を受賞しました。

昭和12年
倉島ミルクプラントの誕生
地域の皆様に「おいしい安心安全な商品」をご提供できるよう「倉島ミルクプラント」を設立。倉島牧場で絞られた生乳だけではなく、周辺の酪農家さんからも生乳を集めて牛乳を生産する拠点として活動しました。


昭和29年
戦時中、戦後の倉島乳業
第2次世界大戦時には、同程度の割合の軍馬と牛を飼育しながら製造を続けました。町の8割が火災被害にあった岩内大火では、販売先を失う危機にも面しましたが、幸運にも牧場や工場は火から免れ、売れなくなった牛乳をバターにするなどの工夫をこらすことでこの大きな危機を乗り越える事ができました。
この頃、平治とヤスとの間に生まれた8人の子供達も、両親の背中を見ながら家業の手伝いをするようになりました。朝から手伝い、学校の1時間目に間に合わない事もありました。当時の牛乳は瓶製だったので大変重く、天秤で担いで歩いて町に販売しに行くのは重労働でした。

昭和32年
ヤクルトさまの販売代理店として
ヤクルトの製造、販売代理店として岩宇(岩内・共和・泊・神恵内)地区の販売も兼ねた営業を開始しました。

昭和34年
ホルスタインの空輸
製造や販売だけではなく飼育牛の育成にも力を入れ、アメリカに渡り15頭の育成牛を2回に分けて連れ帰りました。
1回目は5頭をフェリーで輸送し、横浜港に着いた牛は検疫に3週間かかりました。
2回目の残り10頭は、当時では珍しかった飛行機での輸送となりました。導入後は、ホルスタインの育成も行いました。
多忙を極めたこの頃、倉島家には欠かせない存在となった安井さんご夫妻には多くを支えていただきました。ご主人のじゅんさんには、住み込みで牧場と工場の業務を献身的に支えられ、奥様のうらさんには、事務業務や倉島家8人の子供の世話など公私共に支えられました。


昭和38年
倉島乳業株式会社の設立
初代社長となった倉島平治が、北海道岩内郡岩内町を拠点とした倉島乳業株式会社を設立しました。


昭和41年
ニセコ山系の水道を設置
本社工場が落成し、日産25tの牛乳、練乳設備を新設し、ニセコ山系湧水の水道を設置しました。


昭和45年
ニセコサイダーの誕生
炭酸飲料工場を新設し、ニセコ山系湧水を活用した「ニセコガラナ」・「ニセコサイダー」の製造販売を開始しました。

昭和58年
2代目社長の誕生
初代社長の倉島平治は精力的な活動を続け、長男の雄一郎に2代目社長のバトンを託しました。

昭和61年
3代目社長へのバトンタッチ
元々販売を担当していた2代目社長の倉島雄一郎は、工場の増設による増産を続け、弟の敬毅に経営のバトンを託し、敬毅が3代目社長に就任しました。
さらなる増産には工場が手狭になり、新工場設立候補地を探し始めました。

平成元年
道央圏への進出に向けて
道央圏への輸送には稲穂峠を越えなければいけないことを考慮し、道央圏に近い仁木町に牛乳・練乳工場設立の計画が立てられました。道央圏の販路拡充のため、工場設立に先立って7月に札幌営業所※1を新設し、同年12月には仁木町に新工場が完成しました。
※1 札幌営業所T&Dロジテム札幌丘珠センターの2Fに営業所設置。現在は閉鎖しています。
平成2年
雪印乳業さまの委託製造
自社製品の拡充及び練乳の受託生産に伴い、仁木工場の増築及び練乳施設の増設を実施しました。同じ頃、雪印乳業さまの委託製造※2を開始しました。
※2 2017年に委託製造終了

いまの倉島〜平成から今日まで〜
平成の初期ころから現在にかけては、お客様からのご要望にお応えすべく、製造を増やせる体制に注力してきました。
聞いた事がないような設備が多いと思いますが、当社の設備をご紹介したいと思います。
平成5年
生産拡大に伴い、排水処理施設の処理能力を1日あたり250トンに増能する。

平成8年
【8月】岩内工場にデザート製造施設を新設※3し、ゼリー・プリン生産(1,500個/h)を始める。
※3 1996年に閉鎖

平成11年
牛乳・乳飲料において、総合衛生管理過程(HACCP)を取得する。※2020年に廃止

平成12年
【6月】仁木工場でヨーグルト生産開始※4に伴い充填機と醗酵庫を導入し、生産ラインを設置する。
※4 2003年に生産終了
平成15年
北海道外への出荷を始める
敬毅は、北海道産牛乳のおいしさをさらに知って頂こうと、北海道外への出荷を始めました。
平成20年
大型紙容器充填機ESLを設置する。

平成28年
大型紙容器充填機ESL(6,500L/h)、製函機、段ボール・クレート兼用ケーサー、封緘機、重量選別機の増設と充填室冷暖房設備の新設を実施する。
【7月】Ai1800オークラロボットパレタイザーを新設する。
【8月】冷蔵庫を63.2㎡へ増設する。
国分グループ本社株式会社と資本・業務提携を締結する。


平成31年
大型紙容器充填機ESL(6,500L/h)と製函機、段ボール・クレート兼用ケーサー、封緘機、重量選別機を増設し、充填機CIPチューブ、コントロールユニット装置、ストレージタンクCIPチューブを新設する。
【4月】BIB半自動充填設備を増設する。

令和4年
牛乳において北海道HACCP取得
※2025年7月で終了

令和6年
仁木工場においてFSSC22000認証取得

これからの倉島〜未来へ向けて〜

倉島乳業は、創業からずっと変わらず北海道の豊かな自然が育む生乳を原材料に「おいしい」と感じていただける商品をお届けすることを使命とし、地元の風土を活かした商品が皆様に愛され続けることを目指してきました。
そして私たちはここ、北海道の地元の皆様に愛されてきたこの商品たちを「もっと多くのお客様に届けたい」と考えるようになりました。
平成初期からは安心安全な牛乳がたくさん作れるように、設備投資を主軸に拡大してきましたが、今後はさらなる販路拡大に向けて、多くのお取引先様とのパートナーシップを強化したいと考えております。
そのためには今後も、新たな生産拠点の設立や最新設備の導入を進め、持続可能で効率的かつ柔軟な生産体制を整えていくことにも力を注いで参りたいと思います。

「おいしく、くらしましょ」と伝えられる商品を、
もっとたくさんの方に届けたい!!
そんな夢の実現のためにも、欠かすことのできない従業員の仲間一人ひとりが自信を持って仕事に取り組めるよう、社内研修や資格取得の手伝いをはじめ、より高度な品質管理や生産技術習得へ向けたスキルアップ支援にも力を入れて参ります。
ここまで、全国への販路拡大という大きな夢を語ってまいりましたが、当社は「地域の皆様とともに成長し、地域社会に貢献できる企業でありたい」という変わらない強い想いが根底にあります。
これからは、夢の実現とともに地域の皆様からのお声を直接いただける機会をたくさん得られるよう地元のイベントなどにも、より一層積極的に参加したいと考えております。
皆様とお会いできる機会をとても楽しみにしつつ、私たちはこれからも日々徹底した品質管理の下、お届けする商品の安心・安全を最優先に考え、一人でも多くのお客様にご満足いただけるよう努めてまいります。